スタッフ

原案・脚本
‥‥伊藤智生
‥‥棗 耶子
撮影
‥‥瓜生敏彦
照明
‥‥渡辺 生
編集
‥‥掛須秀一
音楽
‥‥吉田 智
音響
‥‥松浦典良
効果
‥‥今野康之
録音
‥‥大塚晴寿
助監督
‥‥長村雅文
‥‥飯田譲治
撮影助手
‥‥佐藤文男
‥‥菅野幸悦
照明助手
‥‥上林栄樹
‥‥森本幸雄
監督助手
‥‥松田行二
‥‥杉盛 樹
編集助手
‥‥松村将弘
‥‥磯部文弘
‥‥石田 悟
ネガ編集
‥‥小野寺桂子
衣装
‥‥藤井 操
美術装置
‥‥張ケ谷 実
美術小道具
‥‥村上孝夫
記録
‥‥佐々木 薫
‥‥加藤琢実
特機
‥‥秋山 薫
メイク
‥‥立川須美子
スチール
‥‥林 久平
‥‥福田栄夫
アニメーション制作
‥‥スタジオぎゃろっぷ
制作進行
‥‥四海 満
‥‥小宮 真
制作デスク
‥‥鈴木かがり
‥‥坂井一郎
‥‥磯野好司
プロデューサー
‥‥貞末麻哉子
監督
‥‥伊藤智生(TOHJIRO)

<1987年公開当時のプレスより>

「ゴンドラ」のスタッフの主力は、20代の若手であった。彼らはルーティーンに囚われることなく、着想から完成まで、より良いイメージとそれを導き出す方法とシステムを、手探りで求め続けた。

若手スタッフの中にあって、特にキャリアがあると言えるのは、「神田川淫乱戦争」「ドレミファ娘の血が騒ぐ」に続いて本篇三本目の新鋭キャメラマン瓜生敏彦と、独立した編集スタジオをもって活躍中の編集マン掛須秀一だけといってもいいだろう。

プロとしてのキャリアに乏しい若いスタッフが、低予算ながら、テーマを大事にしてじっくりと仕上げた映画。それこそが、「ゴンドラ」のスタッフ・ワークにおいて特筆すべきことである。監督・伊藤智生、音楽・吉田智、脚本・棗椰子らのキャリアは、正にこの「ゴンドラ」を出発点として、未来に向かってひらかれる。

この現場に、この道45年のベテラン照明マン渡辺生が、参加したことに注目して欲しい。彼の存在は、とかく新しい技術と斬新な発想に脱線しがちなスタッフ・ワークに、理解ある冷静な歯止めを加えた。この作品の極めて新しい撮影効果を焼き付けていながら、決して若者による若者だけの映像になっていないのは、このライトを持った老作家に出逢い、さらに深く“生の意味”を体験できたからである。

これらの個性の強烈なぶつかりあいの場をまとめ上げるのは、プロデューサー貞末麻哉子。彼女は、日本映画界においては希有な20代の新人女性プロデューサーとしてだけではなく、作家・棗椰子としてもこの作品に存在を刻印している。

この作品で、伊藤は第9回ヨコハマ映画祭新人監督賞を、瓜生は堂映画祭撮影賞を、貞末は第2回東京たちかわ映画祭特別奨励賞を、獲得している。

(‘88年1月現在)

 

<OM(オム)プロダクションとは>

「ゴンドラ」の監督・伊藤智生とプロデューサーの貞末麻哉子は、1979年7月、東京六本木に- creative spaceOM(オム)-を設立した。

キャパ50席、8㎜と16㎜の上映設備を持つこのフリースペースは、自主上映をはじめ稽古場などのレンタルスペースとして運営された。実際、経営は苦しく、維持費は両者のアルバイトによって賄われてきた。時代の流れがフィルムからビデオへと、創るものに新しいメディアに対する興味を促す中で、敢えてこのOMはビデオ機材の導入を拒み、フィルムに拘る多くの学生や映像作家達の作品発表の場(当時まだ少なかったミニシアター)として親しまれた。

そもそも営利目的として始めた事業ではなく、むしろ映画づくりを目指す自分達の勉強の場を造りたいという純粋な理想を掲げて始めた“道場”のような存在であったこのOMには、自然と多くの理解者と仲間が集まった。ある者は映画を志し、ある者は役者を志し、又、ある者はここで絵を描き、詩を詠んだ。それぞれが生活のために全く違った職業を持ちながら、真剣に創作活動に取り組んでいた。

OMに集まってきた仲間による創作活動が具体化してくると、ものを創る事の楽しさを個々が噛みしめる。それと同時に多くの見解の相違も露呈する。ある者が人間関係につまづき、又ある者が生活のために夢を捨てざるを得なくなりやがて消滅してしまう集団も多い。しかしOMで培った人間関係は幾度もその危機を脱した。創作しようとする真摯な姿勢を互いに見つめ合い、年齢を越えた信頼を大切にした。

1983年12月、六本木・WAVE館のオープニングイベント用イメージビデオを制作するチャンスを得た。これは、オープン記念に発売された10人のミュージシャンによるクリスマスアルバムから一曲選んで映像をつけるというもので、伊藤は高橋幸宏氏の「ドアを開ければ」を選んだ。あくまでもフィルム撮影に拘り、16㎜から1インチによるビデオ編集という難産な出生をたどった。

4分18秒のビデオ作品だが、一人の少年の目を通して、壊されてゆく都市の風景の片隅で失われつつある遠い昔の淡いクリスマスの記憶を映像に封じ込めることに成功した。そしてこの作品はオープン当日、シネヴィヴァンにおける、ミュージシャン達との“音楽と映像の夕べ”というパネルディスカッションのための素材として使われた。

この「ドアを開ければ」の制作が、伊藤、貞末によってOMプロダクションを発足させる大きな契機となった。そして「ゴンドラ」は、作家としてそれぞれが創ることと真剣に闘える場をもとめてOMに集ったスタッフたちの、力強い熱意によって生み出された。

さらに特筆すべきは、「ゴンドラ」の特別先行封切りを契機に集合してくれた宣伝スタッフ達であった。彼らの平均年齢は23歳。皆それぞれが映画監督志望あるいはプロデューサーを志望する青年達である。特別先行封切りは彼らによって発案され、実行された。

制作スタッフではなかった彼らにとってこの仕事との出会いは、すでに完成した「ゴンドラ」という作品との出逢いから始まった。しかし、もともと映画づくりを目指す彼らが“宣伝”という業務を体験した意義は大きい。彼らが模索して選び抜いた方法―それは、今の日本映画界の、一見して商取引に基盤を置いた宣伝ではなく、あくまでも人から人へ、手から手へという伝達の方法により広報の場を広げるというものだった。

そしてそれが単なる理想論に終わっていないことは、先行封切りに詰めかけた観客の反響が証明してくれた。自らを見つめ直し方法を求めるという、創作の基本的な姿勢を彼らはそこにみつけたのではないだろうか。それはOM設立の日よりここに集う多くの仲間が一貫してめざしてきたものであった。

 

<その後のスタッフたち>

「ゴンドラ」の制作に参加したスタッフについて、編集技師である浦岡敬一氏(故人)が、公開当時、以下のようなコメントを寄せてくださった。

横浜放送映画専門学校の卒業生が、「ゴンドラ」をひっさげて登場した。しかも35ミリ映画だ。監督の伊藤智生、撮影の瓜生敏彦、編集の掛須秀一、皆、納得のいく登場だった。背伸びすることなく、感情豊かに青春の淡い日々の記憶を甦らせ、見る者の心に親しく響いてくる。意外な程の出来ばえに胸が高鳴った。ワンショットの冗漫すれすれの長さをもってこそ、私達が失いかけていた映画作りの本質を情念を教えてくれる。失意の映画人に警鐘を与えてくれた「ゴンドラ」の成功を心から祈りたい。次回作品も心待ちである。

浦岡敬一(日本映画編集協会理事長 当時)

■「ゴンドラ」の編集を担当した掛須秀一氏は、コンピューターを使った<ノンリニア編集>に映画業界としては初めて着手。その後、同システムで数々の作品を手がける。1996年には、朝日デジタルエンターテイメント大賞シアター部門/個人賞を受賞した。現在、ジェイ・フィルムの代表。 掛須秀一 作品歴一覧 http://movie.walkerplus.com/person/83559/

■「ゴンドラ」の撮影を担当した瓜生敏彦氏は、現在はフィリピン在住。マニラのスモーキーマウンテンを記録した映画制作をきっかけに、フィリピン国内に拠点を置く。『神の子たち』の撮影中に銃撃を受けて負傷したが、一命を取りとめ、フィリピン国内で撮影技師としての仕事を続ける傍ら、NPO法人Creative Image Foundationを立ち上げ、マニラに住む最貧困層の子どもたちのために教育の場、表現の場と環境をつくるために奔走し、マカティに 「TIU Theater 瓜生劇場」を設立した。
Creative Image Foundation http://www.creativeimage.jp
TIU Theater http://www.tiu.makati.jp/
瓜生敏彦 作品歴一覧 http://www.creativeimage.jp/inc/aboutus2.html

■「ゴンドラ」では助監督を務めてくれた飯田譲治氏は、1989年、「バトルヒーター」で(脚本・監督)35ミリ作品デビュー。1992~1993年、フジテレビ深夜連続ドラマ「NIGHT HEAD」で大ヒット。1998年「らせん」、2000年「アナザヘヴン」、2003年「ドラゴンヘッド」などヒット作多数。
飯田譲治公式サイト http://www.iidageo.com/

■「ゴンドラ」で脚本とプロデューサーを務めた貞末麻哉子はその後、ドキュメンタリー映画の制作へと進み、現在は、マザーバード代表。「水からの速達」、「朋の時間~母たちの季節~」、「晴れた日ばかりじゃないけれど」、「普通に生きる~自立をめざして~」、「ぼくは写真で世界とつながる~米田祐二22歳~」などの作品が全国各地で上映されている。最新作は2020年春に完成する「普通に死ぬ~いのちつなげて~」。
貞末麻哉子 作品歴一覧 http://www.motherbird.net/~maya

■撮影当時68歳だった照明技師の渡辺 生はその後、多摩美術大学で講師として照明技術の指導をしながら日立市に住み、アルツハイマー病に罹った妻・トミ子さんの記録映画「おてんとうさまがほしい」を製作し、全国で認知症の患者を抱える家族のために奔走した。 2015年8月、トミ子さんの13回忌を待っていたかのように、98歳で鬼籍に入られた。 
映画「おてんとうさまがほしい」のページ http://www.motherbird.net/~otentousama/