30年を超えてリバイバル上映!

「謝罪とけじめ」

伊藤智生(1987年当時)

今から29年前、完成した「ゴンドラ」が公開する劇場も決まらずに彷徨っていた時に、海外の映画際の扉を開いてくださったのは川喜多記念映画文化財団の川喜多かしこさんだった。

「監督、どうにも劇場決まらないなら、ホール借りて、先行ロードやりなさいよ。素晴らしい映画なんだから、きっとお客さん来るわよ」

このかしこさんのお言葉にどれだけ自主上映する勇気をいただいた事か!! あの、渋谷・東邦生命ホールでの先行ロードがなければ、テアトル新宿の公開もなかった。それから何度か財団でお会いするたびに、かしこさんは「早く伊藤監督の次回作観たいわ。」そう言って下さった。それから月日が流れ、俺は何の約束も果たせないまま川喜多さんは故人になられてしまった。

ヴェローナで開かれていた日本映画の映画祭に招かれた時、あのフランスの評論家でカンヌの審査委員長などやられていたマルセル・マルタンさんも「ゴンドラ」を観てくださった。

上映後、ディナーに招待してくれて、奥様が日本人だったので通訳してくれて、マルタンさんとはかなり長い時間、映画の事話すことが出来た。

マルタンさんはものすごく「ゴンドラ」を気に入ってくれて、最後に「君の2本目の映画をカンヌ映画祭で待ってるよ」と言われ、約束して別れた。今でも、握手した時のマルタンさんの優しい笑顔、忘れられない。

そんなマルタンさんが今年の6月に89才で亡くなられた。

ゴンドラの劇場公開の後、俺の2本目の映画を期待して待ってくれてる人がいるにもかかわらず、あれから30年が過ぎたのに、俺はまだ2本目の映画を撮れていない!!

そして一昨年、池袋の文芸坐で「森崎東特集」をやった時、久しぶりに森崎監督とお会いした。

「君は何だかポルノの世界じゃ黒澤明だってな!! でも伊藤君!! 俺が生きているうちに2本目の映画見せろや!!」師匠の愛情がこもった言葉が、強烈に突き刺さった。

30年前に「ゴンドラ」の完成試写をイマジカでやった時に、誰よりも早く観てくれたのが森崎監督で、「傑作だ!! おめでとう」そう言ってくれた。

今回の28年ぶりの「ゴンドラ」リバイバル上映は、俺にとっては60年間の人生のケジメだと思う。

今、俺は30年ぶりに、新作を撮る覚悟が出来た。

by 伊藤智生(TOHJIRO)

 

 


このだからこそ

東京の片隅で、母とふたり暮らしの少女かがり・・・谷川俊太郎さんに「不機嫌な少女」と呼ばせたこの主人公の、さびしく揺らぐ心の風景と、再生の軌跡を、若き日に一本の映画に封じ込めました。

1988年春、テアトル新宿での劇場ロードショーから28年。この映画に再びめぐり逢える日がくるとは・・・。

リバイバル上映と、パンフレット復刻再販する機会を得て、脚本と、拙いプロデュース役を担ったわたしの胸にさまざまな思いが過ぎりますが、今、自信をもって言えることは、作品がちっとも「色褪せていない」ということです。そのことはたいへん嬉しくもあり、しかし、この映画が、30年経っても古くならないことは、むしろ大問題なのかもしれない、とも感じています。

 完成当時はまだ「登校拒否」などと言われていた時代、激しい疎外感に周囲から心を閉ざし、実際に不登校をしていた少女がいました。映画ではこの少女に架空の主人公「かがり」役を演じてもらい、親の離婚、母子家庭、いじめ、孤立、まるで現代を象徴するかのようなフィクションの数々を背負ってもらいました。

そして少女は、同じ気持ちを感じることのできる窓掃除の青年と、物語の中で出逢い、生きます。

 バブル最盛期であった当時、繁栄の名の下で、少女や青年の心の「痛みやかなしみ」は、多くの人々の心の水面下に覆い隠されていたように思います。利益や効率を求めて振り返ることを避け、「ゴンドラ」が完成した1986年4月に遠い国で起こった原発の事故も、わたしたちの多くは見て見ぬふりをして過ごしました。

やがて日本は未曾有の大震災と原発事故を経験し、高度経済成長の時代に「とてつもなく大切なもの」をたくさん失ってきたことに気づきます。

 30年前に、少女「かがり」を通して描いた「危機感」は、奇しくもわたしたち日本人の心の「現在」を予見していました。このままではいけない・・・何とかしなくてはいけない・・・どう生きたらよいの?・・・何を愛したらよいの?.映画の中の少女に託した叫びは実際、切実だったのですが・・・・。

 30年経った今、この撮影現場の写真を見て思います。人と社会への信頼をたぐり寄せ、実際に、映画を一緒につくることで自分の居場所を見つけた少女は、笑顔を取り戻してくれました。それだけで十分だった。そのことが一番嬉しく、そしてそれが何よりも一番大事だった、と。

 ますます息苦しさが増してゆく社会の中で、今も心の居場所をもとめて彷徨うすべての”かがりちゃん”に、この映画を届けてゆきたいと思います。

プロデューサー 貞末麻哉子(棗 耶子)


1985年東京「ゴンドラ」の撮影現場にて上村佳子さんと筆者