不機嫌な少女
詩人 谷川俊太郎
主人公の女の子、かがりがさ、ガラスふきの青年にお金返そうとして貯金箱割るでしょ、そうすると、百円玉や十円玉の中にドル紙幣がまじってるのよかったね。母親が彼女をおいて海外旅行にいっちゃったんだってことがパッとわかっちゃう。その母親がさ、男の運転する外車に乗って家へ帰ってくるでしょ、当然なんかあるんじゃないかってかんぐるんだけど、なんにもなくてあっさりお礼言って別れるとこ、よかったね。
なんにもないってことがちゃんと表現になってる。いまの映画ってなんかなきゃドラマにならないって思いすぎてるんじゃないかしら。
かがりが死んだ文鳥を弁当箱に入れるよね、こっちは普通の弁当箱だって思うじゃない、ところがそれを母親がすぐ冷蔵庫の中で発見するんだよね、なんか不自然だなって感じてると、実はその弁当箱は母親の子どものころのただひとつの記念品なんだよね、名前が書いてあったりしてさ、あそこもよかった。そのあとヒステリックになってシャワー浴びてる母親に、かがりがくってかかるところもよかった。素裸になると役者も演技の質が少し変わるみたい。
そういえば、お風呂の中の佐々木すみ江もよかったよ。なんにも思わせぶりなところのない、正直で日常的な裸には映画の中ではめったにお目にかかれない。
木内みどりでもうひとつよかったのは、女友達がたずねてきてビール飲んで、子ども生もうかどうしようかってクダ巻くじゃない、そのあと木内みどりが粘着テープでじゅうたんのゴミをとるのね、あれは演技っていうより演出なんだろうけど、あそこにも感心しました。母親を神経症的にえがいてるんだけど、それを病気とはとらえてない、だからひとりの女がちゃんと見える。
大体あんなきれいきれいなグッドデザインのマンションに住んでる母子家庭ってのにも、びっくりするよね。普通ならうそっぽく見えるとこなんだけど、それが逆にひどく現実的に見える。いまの東京ってこういう場所なんだなって納得させられてしまう。きれいすぎるから、かえって住んでる母親の緊張した精神状態がはっきりする、そういう計算がうまいと思った。
離婚する以前に住んでた古ぼけた公団住宅のDKで父親と母親が言い合う回想シーンも、セリフがきれぎれにしか聞こえてこないことでかえって、現実感があったよね。あれ全部ていねいに聞かせてたら、セリフが月並みだからつまらないと思う。カメラが傾いたりするのも、わざとらしいなんて思わなかった。
道路に描かれた五線譜を、道路掃除の車が消していくところなんかもね、高校生の芸術映画みたいだけど、かがりって主人公に存在感があるから見ていられる。
こんなふうにいいつづけているときりがないな、でもいい映画ってどうしてもこういう話しかたになるんでしょ。つまり感想が抽象的にならないんだよね、場面場面の細部に目がいっちゃう。主題とか問題意識っていうのも大切なんだろうけど、映画ってやっぱり場面場面の積み重ねだからね、文学やる連中が一行に骨身を削るのとおんなじだと思う。
現実ってのはいつも主題とか問題意識をはみ出しているものでしょ、その思いがけない現実をとらえる想像力のない映画なんて、いくら問題意識があったってまあ骨と皮みたいなもんだ。
前半のかがりの不機嫌な顔がすばらしかったね、そうなんだよ、あれは不機嫌て言うべきなんだよ、自閉症的なんて言うとなんか違うものになっちゃって、かがりっていうひとりの少女がどっかへいっちゃうんだよ。いやあ不機嫌な少女ってのはすごいもんだな。不機嫌な中年男なんて足元にも寄れないくらい凄みがある。不機嫌な中年男の不機嫌な理由なんてたかがしれてるんだね、きっと。競馬ですっちゃったとか、部長にこごと言われたとか、通勤が疲れるとか、それはそれで大変だってことは分かるけど、少女の不機嫌はもっと根が深いような気がする。人間の範囲を超えてるような気がする。
だから最後が下北の海で終わってもよかったんだろうと思う。あれでもういっぺん東京へ戻ってきたら連続テレビドラマになっちゃう。かがりはおだやかな海と、自然に頼って生きる人々との交流と、愛する文鳥の死を認めることによって浄化される。たとえそこにも過疎を始めとするさまざまな問題が残されているとしても、いやむしろ、「問題」がひとつも解決されてないんだからこそこの映画は終わることができるといってもいいかもしれない。
警察だかどこだかよく分からない場所で、離婚したかがりの父母はつくねんと座ってる、その舌足らずな描きかたがとても効果的だった。大体登場人物の口数が少ないんだよね、たまにかがりが名セリフを吐いたりもするけれど、登場人物がかるがるしく事態を解説したり、主題を説明したりしないのがいい。
この映画には主題や問題がいっぱい隠されているけれど、そしてそれについて語ろうとすれば言葉はいくらでも消費できるけれど、そういう語りかたで語ることはこの映画にふさわしくないと思った。
(1987年公開当時)
「ゴンドラ」に
・・・原・生命を湛える水の深み・・・
映画評論家 石原郁子
映像はのっけから危険なほどに美しい。光の塔を思わせる高層ビルを見上げ、見下ろす眩暈に似た感覚。そして、窓を拭く青年の眼下に広がる都市の街路が、みるみるきらめく水を湛えた青い海に重なってゆく。この水のイメージは全体を貫いて、あるときは初潮を迎えた少女の孤独な揺らめきを飛沫(しぶき)の向こう側に透かし見せるプールであり、食器をつけた流しの水であり、彼女が水着を洗う石鹸液であり、一人飲むミルクであり、その心に揺れ動く風景もまた、一瞬水中世界のように見える。
更にそれは、流しや浴室で小鳥の死体の匂いに向けて迸(ほとばし)る洗い場であり、音叉の波紋を広げ、少女が絵筆を洗う、グラスの水であり、少女と青年とを濡れそぼらせる雨であり、青年の母と少女とが暖かく背を流し合う風呂の湯でもあるが、何よりも青年の故郷である貧しい過疎の漁村の、驚くほど濃い青い海であって、そう言えば島国である私たちの国では、水は本来、こんなふうに生命の底から切ない叫びに応えて、彼方から清冽に呼び返す、巨きな胎としての深さなのだったと気づく。
自閉症のように級友たちから距離を置く、孤独な少女。だが彼女は意志的な強い瞳をもち、音叉を耳に当てて自身の内側の声を聴き、確かめようとし、あるいはおそらくそれに共鳴する響きを掴み当てようともしている。いずれにせよ彼女の内にあるのは虚無や自棄ではなく、余りにたやすく片づけられ忘れ去られてゆく何かへの、ほとんど怒りを含んだ拘(こだわ)りであり、それは死んだ文鳥の生命や、その生命を静かに抱き取るものへの拘りに繋がってゆく。
その拘りは、青年のもうひとつの孤独を揺さぶり、二人はお互いを通してそれを貫く途を探し、そして、自分たちの心とからだのすべてを使って、いっときでも純粋に、それを完成させるのだ。
冒頭で、孤独な都会の海に一人を乗せて浮かんだコンドラは、終景で死者たちが波に心を託して生者を守ってくれるという故郷の海の、金色の夕日の中に、二人のほのかに触れ合う心を乗せて漂う。それはまた、自身の内に流れ始めた生命の潮流を知りつつ、それに向き合うすべをもたなかった少女が、それへの慈しみを学び、その源を見出した旅ともいえるかも知れない。
浄める水。癒す水。原・生命を産み、育み、生命の終わりにそれを解体し、融合し、永いときのうねりの果てに運び去る水。しかしこの映画は、そうした水の自らのもつ力に甘えてはいない。この映画はどんなときにも甘えない。心象の象徴めいて揺らめく風景は、ときに流麗すぎる感傷に陥るかに見えて、表現することに対する虚心な慎み深さの内に、きっちりと抑制される。
主人公たちの、そしてその背後に佇(た)つ若い作り手たちの、忙しすぎる時間の落とし物を凝視し、丹念に一つ一つ拾い上げてゆくような、寡黙なまなざしには、あらゆる価値が迷彩の中に急速に見失われゆく現在にあって、頑なに守らなければならないものが、確かに見えているようなのだ。
流行の<監督第一作群>の、巧妙な<新感覚>の安易さや調子のよさから、この映画はもっとも遠く、水の力はむしろ、彼らの不器用で永つづきする素朴な意志によって救われ、もう一度回復される。 そして、甘えない映画はまた、押しつけることを好まない。少女と青年との抱える拘りについて、映画はなにも言葉で説明するわけではない。おなじように、いじめあるいは現在教育の欠落させている部分について、娘と心を通わせられない母について、あるいはその母にも例えば赤い弁当箱に秘められた自己の思いがあることについて、少女を故郷に連れてゆく青年の決意について、「帰りたくない」と言う少女に「どんとはれ」と答える青年の気持ちについて、映画は説明しない。
部屋の照明や蝋燭の灯り、車灯など、水とともに全体を貫くイメージである光。繊細な音楽と印象的な効果音、そして更に印象的な無音・半音のシーン。ブラインドやモビール、模型の漁船などの小道具、とくに、光と水とをそのきらめきで繋ぐ、さまざまなガラスの器やオブジェ、破片。そうしたものたちだけが、直截に私たちの胸に何かを伝え、大切なことは安易に言葉にされない。
満ち足りているはずの私たちに周囲に、これほどの暗黒や哀しみがあることに、いっとき頭を垂れて佇みながら、それへの思いを深めることや解決を模索することは、私たちの一つ一つの心に委ねて、映画は何よりの誠実さとして、ただ静かに透明にある。 あるいはそのことはまた、美しいものにそのうえ過激なドラマは要らない、という確認でもある。
愛らしさをはにかむようにパンツルックに身を包んで、男の子のようにぶっきらぼうに話し、ふるまう少女と、弱い者が優しいと言い、その優しさを敢えて今、自分に取り戻そうとする青年。彼らのあいだには、からみ合うエロティシズムの危うさははじめから存在しない。ただ支え合って同じ方向に進む、ひたむきな浄らかさがあるだけだ。彼らの性の状況を期待し、それが見えないことを作品の欠陥とする考え方がもしあるとすれば、性はなくてはならない重大なものでは別になく、もっと大切なものが語られるときには、性がいとも軽やかに飛び越えられてしまう瞬間もあるのだ、とだけ言っておこう。
ここでは、ないことは欠陥ではなく、むしろ豊さの表れなのだ。烈しく氾濫する豊かさではない、ひそやかに人の内奥に滲み入り、ゆっくりとときをかけてそこに満ちてゆく、澄んだ潮のような豊かさ。 これは頭の中で考え出された物語でなく、物語が自身の力で作り手たちの内部にはっきりと立ち現れるのを待って、母が子を産むときのように、それを重み、痛みとして引き受け、もちこたえながら、丹念な優しさで産み出された作品なのだろう。
映像は静かだが、真剣な力に満ちて、繰り返し私たちを呼び戻し、幾度見返してもそのたびに、この至上の瞬間がいつまでも終わらないで欲しいという思いにさせる。多くの日本映画では、流れるクレジットの最後に、監督の名がいとも印象的に静止して幕となるのだが、この作品では、監督の名も他のスタッフ、キャストの名とともに流れてゆく。この見事な志の高さ。稚拙で舌足らずでときに苦しいほどの正攻法の中に、創出するものの王道をゆく、丈高い姿勢が輝いて見える。
(1987年公開当時)
伊藤智生さま
記録映画作家 羽田澄子
あなたの作品「ゴンドラ」を見る機会を与えて下さってありがとうございました。私は深い感動と共感をもって見終えることができました。この感動は久しく感じることのなかった感動でした。どう言ったらいいのでしょう。いろいろな想いが錯綜するので順序だたないのですが。
まず、トップシーンでビルの屋上からせり出したゴンドラからはるかな下界を見おろしたショット。 「ゴンドラ」という題名なのに、私はうかつにも、ビルのゴンドラをイメージしていませんでした。めまいとともにこの映画が「ゴンドラ」であることを実感したのでした。カットのもつ硬質な肌ざわりは、まるで大都会そのものの肌ざわりのようでした。このカットがすでにある予感をはらんでいましたけれど。
「ゴンドラ」は大都会のもつメタリックな疎外感をほんとうによく表現していました。私自身、ビル街や高層アパーに身をおいたとき、鉄とガラスとコンクリートが構成する人工的な空間の中で、何かが欠落していくめまいに似た恐怖感におそわれることがあります。日頃、心の奥底で感じていたこの感覚が、実にみごとに映像化されているのを、虚をつかれる思いで見つめたのでした。この感覚は、言葉では、百万言つかっても的確には表現できないと思うのですが、映画はまさに、このような感覚を表現する言語であることを 「ゴンドラ」を見ながら改めて思ったのです。
実景の感覚的な捉え方とともに、大都会の疎外感を肉体化していたのが、あのかがりちゃんでした。何と不思議な子供でしょう。あの子の存在がこの作品を決定的なものにしましたね。あの子がいなければ、この作品は恐らくなり立たなかったと思いました。
この作品は映画でしか語れない言語をもっていることに私は感銘をうけたのですが、それを支えている一つの柱に撮影の技術があると思いました。技術は過剰になると、それだけ浮いてしまいがちですけれど、「ゴンドラ」では、技術的な工夫がすべてプラスに働いて、映画の表現をゆたかにし、工夫自体がテーマを語る表現になっていました。このようなことは稀有なことではないでしょうか。
ストーリーが単純であることも、「ゴンドラ」の場合はよい結果を生んでいると思います。単純さが、きわめて求心的に働いて、あらゆる表現が一点にひきつけられていく構造になっているのです。そして、かがりちゃんの目がその働きを一層強めていて、それはまるでブラックホールのように、すべてを吸いこんでしまう気がしました。
私は、「これは私の好きな作品だ」と思いました。だから一層強く思ったのかもしれませんが、何より「ゴンドラ」が純粋に一人の作家の作品としてなり立っているということに心を打たれたのでした。それは、発想にはじまり、創造のあらゆる過程に、一人の作家の魂と技が通っているということです。現在、数多く作られている映画のなかで、このような純粋さをもち、しかも傑作である作品がどれほどあるでしょうか。私はこの困難な状況のなかで、これ程の作品を生みだした努力と才能に心から敬服したのです。
日本の映画は古い映画の世界からではなく、全く違う途をたどって現れる新しい才能によって途がひらけるだろうとは思いつづけていましたが、「ゴンドラ」が、そのような状況をまさにつくり出していると思いました。
ところで、主役の青年が、あなたにそっくりなので驚きました。多分、あなた自身この作品にかけた想いが、この青年を選ばせたのでしょうね。とにかく、かがりちゃんは抜群でしたが、青年も他に替えられない存在感があって良かったし、他の俳優さんもぴったりでした。
映画の内容についての感想にあまり触れられませんでしたが、「ゴンドラ」を見せていただいて、あなたにまず伝えたいと思ったのは、こんなことだったのです。とにかく、第一作でこれ程の作品を創造された才能に心からの拍手を送りたいと思います。
三月三日(きょうはひな祭りですね)
羽田澄子(記録映画作家)
(1987年公開当時)
ねェ、おとなになって、良かったとおもっている?むなしくない?
わずか11歳の少女が、これほど重いことばを渇いていってのけるとは・・・上村佳子と伊藤智生は、日本映画界の新しい原石だ
映画評論家 北川れい子
幾度となく、うろたえてしまった。何回も、にぶい痛みを感じてしまった。 不吉な予感を先取りし、その先取りした予感の醜悪さに覗き見をみつかってしまたときのような気まずさを覚え、思わず椅子に座りなおしたりも・・・。
それも当然だと思う。初潮をむかえたばかりの孤独でかたくなな少女と、同じく孤独な青年との密やかな関係。そこになんら性的な関係はなかったとしても、実話雑誌風なよくある話しを嗅ぎ取って、ゆがんだ野心と暗い欲望をデッチ上げても不思議はない。
ところが違っていた。オレンジ色の海に小舟が浮かぶエンディングでフッと気がつくと、オープニングからこのシーンにいたるまでの、すべての映像、すべてのエピソードが、まるでベールを剥いだように鮮やかに一変し、一本の映画を観ながら、同時にもう一本の映画を観たような感動と興奮を覚えたのであった。
それはたとえば、どういう絵が現れるか分からないまま、勝手な創造でジグゾーパズルの不定形な断片を一枚一枚つなぎ合わせていて、途中、なんだ静物画が、と思っていたら、意外や、人物画だったとでもいうような。
この作品は、それほど鮮やかに、垂直から水平へ、リアルから幻想へ、人工的無機質から自然な光景へと変身し、いつの間にか少女も青年も透明な存在となって風景のなかに沈んでいる。 そういえば秀れた映画の多くは、場面と全体のイメージは、常に対立し、拮抗する。
それにしても、私が映画を観ている最中、幾度となくうろたえ、あるいは気まずく思ったのは、少女のあまりに無防備な孤独と、青年の素朴すぎる孤独であった。
少女の無防備な孤独は、自らを“見えない人間”として無機質化し、誰にも心を開こうとはしない。青年の素朴な孤独は、都会の風景に海を重ね、そこにひっそりと閉じこもる。前半の二人を取り囲んでいる状況は、コンクリートとガラスとプラスチックとステンレスで出来上がっている。ひんやりと冷たい人工的大都会だが、人も建物も垂直に孤立せざるを得ない環境の中で、ふと目を交わし合った少女と青年の危うい関係は、やがてやわらかく重なって、少女は背伸びをやめ、青年は自分の両親の悲しみを理解する。
イメージに重なる音や空白、ぶっきら棒にかわされることばのやりとりが素晴らしい。さらに感情を拒否するような無機質な光景と、思いがいっぱいに詰まっている小さなモノや小道具たちとの危うい力関係。 息苦しい不安を暗示させる血や水、油などが、映画が進む中で、ファンタジックでリアルな抒情と郷愁が漂う、甘くせつないオレンジ色の海へと変わるさまは、まさに心地よい興奮であり、そしてまぶしいほど美しい。
瓜生敏彦のカメラを始めとするスタッフの優れた仕事ぶりに感激しつつ、伊藤智生監督の確実な才能に、心からの拍手を送りたい。
(1987年公開当時)
<確かさ>を求める作業
映画評論家 大久保賢一
かがりという名の少女を演ず上村佳子の表情が、この作品全体に力を及ぼしている。作品そのものが彼女の表情を息を殺してみつめているといってもよい。かがりが初めて笑顔を見せる、その瞬間へ向けての求心的な動きが「ゴンドラ」という映画だ。
都会のマンションに母親と住む10歳のかがりと、ビルやマンションの窓掃除をする青年(彼は宙に吊されたゴンドラに乗って映画に登場する)。二人は、かがりの部屋のガラス窓を通して、初めて対面する。二人の間をつなげるのは部屋の鳥籠の中の小鳥、仲間に攻撃されて傷ついた小鳥だ。
青年に伴われたペットの病院でかがりの小鳥は手当を受けるが、その甲斐もなく翌日には死んでかがりに引き取られる。 小鳥をどのように葬り弔うか。その送り方を探すことが、かがりと青年の行動のラインとして引かれる。 小鳥の亡骸は、運ばれることで様々な容れ物のイメージを呼び寄せる。
大きなマンションへと母と引っ越す以前にかがりが住んでいた、団地。夜の団地の庭に、いったんは小鳥を埋めようとした彼女は思いとどまって言う。「ここにはもう戻れないから」。暗い塊としてうずくまる背後の団地は<過去>そのものであり、その内懐に息のつまるような「温かい」家族の情愛、齟齬、接触という<過去>をかかえこんでいる容れもののイメージでもある。
かがりが小鳥の亡骸を収めていた赤い弁当箱は、彼女の母(木内みどり)が、メタリックで「清潔な」現在の環境の中に唯一持ち込んでいた<過去>だ。弁当箱を観た彼女のショックは、表面的には想い出の品に死骸を入れられたおぞましさからくるものだが、それは、唯一の<過去>のしるしを奪われようとした(それも「棺」として)ショックともいえるのではないか。
母にとって、赤い弁当箱が現在の、現実の不確かな感触の中で唯一の<確かさ>だったとすれば、かがりにとってそれは、廃墟の中に隠した宝の箱だろう。彼女はこの容れ物のなかに<過去>を封じ込め、ときおり出向いてそこから<過去>を取り出すことで、現在の現実へ向けた硬い表情をはずす。
取り出されるハーモニカは作曲家だった父、母と別れて去った父(出門 英)のイメージを呼ぶ。父から贈られていたメロディを吹くことのできるハーモニカは<過去>を再生させる道具であり(それは映画の最後ではじめて現在のために吹かれているが)かがりが繰り返し振動させる音叉は、外界と「言葉」を交換することに強い抵抗を示すかがりが、夢と白昼夢として確かなリアリティを持って再生し続ける<過去>と現在との境界で打ち鳴らす道具だ。その道具、音叉が青年に手渡される。これは彼女の現在を拓くことを青年に委託するしるしだろうか。
青年は、ガラスによって他者と隔てられていると強く意識していた。確かな感触を奪われているという意識だ。だが、<確かさ>はどこにあるというのか。彼がかがりを伴う北の海辺の故郷にか。
彼の父と母が見せる感触。風呂でかがりと流し合う母の背や、不自由な父の口元から飯粒をつまむ指と口。かがりに新鮮な驚きをもたらし、体の、心のこわばりを解くようなこれらの感触は、青年自身にとっても<確かさ>といえるのだろうか。
彼は小鳥の葬いのために廃船を再生する。記憶の再建でもある。<確かさ>を求める作業はそのように、<過去>と、<葬うこと>と関わらずにはあり得ないと、この作品は示しているようにも見える。
(1987年公開当時)