〈フィクション劇〈ドラマ〉という形を選んではいるが、この映画の主人公―かがり―が生まれた背景には、かがりを演じた―上村佳子―というひとりの少女のドキュメントが隠されている。〉
私が彼女と初めて出逢ったのは1983年、彼女がまだ小学校4年生の時だった。
いじめや自殺、登校拒否などの問題の渦中にあって、当時の彼女は“問題児”と呼ばれる生徒のひとりだった。個性の強さが協調性を欠くと判断され、安易に他人と迎合せずに独りでいることを選べば、画一化した集団生活や団体生活からはみ出した問題児として扱われてしまう―学校でのそういう状況に、その時すでに彼女自身、すっかり絶望しかけていたのではないだろうか。
彼女の精神の風景に何の興味も抱けない相手が、彼女とコミュニケーションするのが困難なことを私は容易に理解できた。そして何より心配だったのは、彼女の瞳の奥に輝きがなかったことだ。つまらなさそうに虚空を見詰め、心を閉ざす小さな魂の生きる力を支える原動力は、薄氷のように危うく思えた。
幼い頃から私自身も器用な性格ではなかった。家庭や学校あるいは地域の人間関係から否応なしに孤立させられてしまう自分をうとんだ記憶が数多くある。しかし私には映画をつくりたいという夢と共に、同じ夢を追い求めようとする仲間ができた。あるときは反駁し、又ある時は励まし合いながら、“決して自分はひとりではない”と彼らはある瞬間、私に信じる力を与えてくれた。
誰だって最後には“どうしたってひとり・・・”なのかも知れない。だがその強烈な枯渇感に生きる力がググッと低下させられた時、半分渡り始めていた精神の死線から私は幾度も引き戻された。
そういう意味では私は幸福な現場にいた。そして上村佳子というひとりの少女をその現場に引きずり込むことを決意した。その勇気を繋ぎとめることは私の使命のように思えた。
“生きていることってそんなにつまらないことじゃない!!”そんなことを彼女に知って欲しかった。
上村佳子という少女の見つえる風景を少しずつ知るうちにーかがり―という少女の原形が浮かびあがった。アスファルトに埋められた遊び場・・・生命のエネルギーを奪う都市機能・・・私の叫びたい現代の姿を主人公に託してシナリオの作成が始まった。
しかし、準備稿ではフィクションにつきまとう“嘘っぱちドラマ”の命題につまづいた。私がつくりたいのはドラマではなく、ごく日常的な情景の中で人々が繰り広げる心の対話をフィルムに彫刻したかったのだ。
‘84年夏、プロデューサーと共に彼女を誘い出し、シナリオハンティングの旅に出た。都会に生まれ育った私にとって、寒村の人々の生活に触れることは大きな興味があった。そして事実、原発問題に揺れる村々の風景と、実弾演習におののく地域の驚異的な騒音を知って、祖国日本のほぼ全土にはびこる、とんでもない人間のまちがいに驚愕したことは大きな収穫だった。
“守るべきものは何なのか”を考えさせられる旅だった。
しかしこの旅の大命題であった“少女の心を開かせるものは何なのか・・・”という答えはどこを捜してもみつからない。その閉ざした魂との苛立たしい距離に絶望しかけていた。
最後の海岸に立ち寄ったときのことだった。その海はどこまでも透明で、ただただ美しかった。
「もうこんなきれいな海、めったに来れないかも知れないから一緒に泳ごう!!」
「やだ」
その旅の間中、私の誘いはいつもこんなふうに一語で拒絶され続けてきた。彼女のその冷めた瞳を見つめ、私はいつしか相手が子供であることすら忘れそうなほど憤怒していた。「勝手にしろ!!」そう思ってひとりで泳ぎながら私は自分に腹を立てていた。思いあがりも甚だしかった。子供の心を開いてやろうなんて思っていた自分自身に疲れ果てた。これが現実だ!何が映画だ!何も救われはしない!!
その時だった。いつの間にか水着になった彼女が傍らにきた。
「ねえ、お願いがあるんですけど・・・」
「何?」
「網が欲しいんです」
私は驚いた。想像を絶する意思表示だったのである。急いで買ってやった網を手に、彼女はあれほど嫌がっていたことが嘘のように、小魚を追い回して夢中で泳いだ。もはや目の前にいる少女は登校拒否児童でも自閉症児でもない。まぎれもなく元気な子供の姿だったのである。
海岸で暗くなるまではしゃぐ少女の姿を見て、私はひっそりと自足していた。静かに映画「ゴンドラ」の方向を私は見つけた。 ―言葉を越えた何か― その答えは確かな手応えと共に大自然の力を借りてはじめて、私の目の前にあったのだ。
危機があるとすれば、それは我々の精神に内在する。私はそれを提起したい。
―失いかけた魂を呼び戻すこと・・・それはもう一度愛すること―
すべての芸術は、今こそとんでもない力を持つべきだ!!
「ゴンドラ」の最終決定稿で、私と棗椰子が机上の空論で作り上げたかがりのセリフに、上村佳子君のアドバイスが数多く加えられたことを付記しておこう。
監督 伊藤智生(1987年記)